江戸東京野菜 文字サイズを標準にする 文字サイズを大きくする 江戸東京野菜

どこでどんな野菜が作られていた?

※番号をクリックすると、各地区で作られていた野菜がわかります。

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※注
栽培が途絶えたものの旗印栽培が途絶えたもの
別のところで栽培されている旗印別のところで栽培されているもの
現在も栽培されている旗印現在も当時の産地で栽培されているもの
参考文献:
青葉 高著『日本の野菜一果菜類・ネギ類』(植物と文化双書)八坂書房、1982
青葉 高著『日本の野菜一葉菜類・根菜類』(植物と文化双書)八坂書房、1983
渡辺善次郎著『都市近郊農業史論 都市と農村の間』論創社、1983
「江戸・東京ゆかりの野菜と花」JA東京中央会、1992
「江戸・東京農業名所めぐり」JA東京中央会、2002

1)鳴子(なるこ)うり[金まくわ]別のところで栽培されている旗印 新宿区西新宿・鳴子坂

江戸幕府を開いた徳川家は、元和年間(1615-24)に美濃国(現在の岐阜県)真桑(まくわ)村から農民を呼び寄せ、新宿の鳴子と府中是政(これまさ)村(現在の府中市)に幕府御用畑を設け、真桑瓜を栽培させました。元禄11年(1698)に新宿に宿場が開かれたこともあり、宿泊客目当てに栽培は次第に盛んとなり、鳴子で育てられたことから「鳴子ウリ」と呼ばれ、明治にいたるまで特産地として栄えました。
当時の鳴子ウリは長さ10cmほど、太さは直径5?6cmで、へたのある元より末のほうが少し大きな小型瓜。外観は緑色で表面に細く濃緑のすじがあり、熟すと甘い香りとともに黄色に色づきます。果肉は緑色で甘味に富み、甘いものの少なかった江戸時代、水菓子として貴重な果物でした。

鳴子うり

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2)早稲田(わせだ)みょうが別のところで栽培されている旗印 新宿区早稲田・穴八幡付近

穴八幡神社の北を流れる神田川流域のなだらかな北斜面には、昔からミョウガが自生していました。江戸時代、早稲田付近はミョウガの産地として有名で、周辺農家の人たちは豊作祈願にこの穴八幡神社を訪れていたといいます。徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」(1828年)に紹介された早稲田のミョウガは大振りで香りがよく、全体に赤みが美しいので、薬味のほか漬物や汁の具などに用いられました。ミョウガの独特の風味は江戸庶民に好まれ、江戸後期には畑で栽培されていました。

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3)内藤(ないとう)かぼちゃ栽培が途絶えたものの旗印 新宿区内藤町・新宿御苑

新宿御苑は江戸時代、高遠(たかとう)藩主内藤家の下屋敷でした。当時、武家では屋敷内の畑で、野菜などを栽培し自給するのが一般的で、内藤家でも野菜を栽培していました。ことにカボチャの栽培が盛んで、「内藤カボチャ」とか「淀橋(よどばし)カボチャ」ともいわれて、この地域の名物でした。

内藤かぼちゃ

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4)駒込(こまごめ)なす栽培が途絶えたものの旗印 文京区本駒込・富士神社付近

当時の江戸近郊農村だった本駒込では換金作物としての野菜栽培が盛んで、各種の野菜が生産されるなど、大消費地江戸の供給基地となっていました。とくに、ナスは優れたものができたことから「駒込ナス」として庶民に好まれ、「新編武蔵風土記稿」(1828年)にも記されています。また農家はナス苗や種子の生産にも力を入れ、それらをタネ屋に卸していました。現在の巣鴨駅北西の旧中山道にはタネ屋が集まり、駒込、滝野川など周辺の農家が優良品種の採種を行っていました。

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5)亀戸大根(かめいどだいこん)現在も栽培されている旗印 江東区亀戸・香取神社付近

このあたりで大根づくりが始まったのは、記録によると文久年間(1861〜64)の頃です。香取神社周辺が栽培の中心地で、以来、明治時代にかけて盛んに栽培されてきました。この周辺は荒川水系によってできた肥沃な粘土質土壌であったため、肉質が緻密で白く冴えた肌の大根づくりに大変適していました。
亀戸大根は根が30センチ程度の短い大根で、先がクサビ状にとがっているのが特長。明治までは葉が丸いことから「おかめ大根」とか「お多福大根」といわれましたが、大正初期に産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。しかし、宅地化が進んだ大正時代の終り頃から、産地は江戸川区小岩や葛飾区高砂などに移っていきました。

亀戸大根

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6)寺島(てらしま)なす栽培が途絶えたものの旗印 墨田区東向島・白鬚神社付近

かつて、白鬚神社の周辺は寺島村といいました。「元禄郷帳」(1688〜1704)によれば、この地域一帯は隅田川上流から運ばれてきた肥沃な土によって、ナス作りに適していたことから、ナスの産地として有名になり、生産されるナスはその名も「寺島ナス」と呼ばれていました。

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7)谷中(やなか)しょうが別のところで栽培されている旗印 荒川区西日暮里付近

荒川区西日暮里・諏方(すわ)神社周辺から谷中にかけては、江戸時代からのショウガ産地で、農家の人たちは豊作祈願のために諏方社を訪れたといいます。収穫時がちょうどお盆の時期にあたるため、商人や職人、谷中の寺社などが、お中元の贈答品に利用したため江戸中の評判になり、ショウガの特産地となりました。以来、「谷中」の名はショウガの代名詞となり、今でも粋な符丁として、市場や居酒屋等で呼ばれています。今は埼玉県に産地が移っています。

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8)三河島菜(みかわしまな)栽培が途絶えたものの旗印と三河島枝豆(みかわしまえだまめ)別のところで栽培されている旗印 荒川区荒川・三河島付近

三河島菜は結球白菜が中国から伝わる以前から栽培されていた漬菜(つけな)で、江戸時代初期に、三河国(愛知県)の農民がこのあたりに入植して作りはじめたと伝えられています。三河島菜の特徴は、葉の幅が広く、色は黄緑。白菜のようには結球せずに大株になり、外葉のつけねの部分が外の方向に張り出し、船の錨に似た姿なので「いかり菜」とも呼ばれ、漬物にして食べていました。明治初年頃から作付面積が増えましたが、まもなく白菜の人気が高まるにつれて、とって代わられ、今は見られなくなりました。
三河島枝豆は三河島菜とともに作られてきた枝豆で、7月の中頃に収穫でき、枝数が多く、さやの表面についている毛は白色、葉は濃い緑で、1さやに3粒の豆が揃ってつく優れた特性をもっています。この地域の土質は荒川下流の沖積土で、枝豆の栽培に適していました。今も品種は残っていますが、宅地化された三河島では栽培されていません。

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9)小松菜(こまつな)現在も栽培されている旗印 江戸川区中央一帯

享保4年(1719)、8代将軍吉宗が鷹狩のとき、食事をする場所として、道灌島香取神社が選ばれ、ときの神主・亀井和泉守永範がその役を受けました。これといって差し上げるものもなかったので、餅のすまし汁に青菜を少々彩りにして差し出すと、吉宗は大変喜び、この菜を「小松菜」と命名されたと伝えられています。文化元年(1804)の「成形図説」には、「小松川地方で産する菜は、茎円くしてすこし青く味旨し」とあり、文政11年(1828)の「新編武蔵風土記稿」には、「菘 東葛西領小松川辺の産を佳品とす。世に小松菘と称せり」と記されています。

小松菜

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10)足立(あだち)の水(みず)せり別のところで栽培されている旗印 足立区扇付近

荒川下流域にあたる足立区には低湿地帯が多く、本木地区(現在の扇、本木、興野付近)では、豊富な水を利用した水セリ栽培が行われました。栽培起源は、江戸時代の中頃と言われています。セリ栽培の盛んな頃は「一寸一両」といわれ、茎が長いほど高く売れたので、農家は1センチでも長く作る努力をかさね、長いもので50センチにもなりました。冬のセリ田での収穫作業は、寒さが骨身にこたえたと語りつがれていますが、初春の風味をもつ野菜として江戸市民には喜ばれ、農家の大きな収入源となっていました。

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11)金町(かなまち)こかぶ別のところで栽培されている旗印 葛飾区東金町一帯

金町コカブは、明治末期に金町(現在の葛飾区東金町)の長谷緑之助が、下千葉中生というコカブを、4月に早どりできるように改良したものだといわれています。当初は、千住市場に出荷され、高級料亭等に高値で取り引きされていました。その後、金町一帯で広く栽培され、さらに東京から全国に広まったカブの品種です。「金町コカブ」は春に花芽が出にくい性質をもっていて春の栽培がしやすいため、金町周辺では盛んに生産が行われました。

金町こかぶ

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12)本田(ほんでん)うり[銀まくわ]別のところで栽培されている旗印 葛飾区立石付近

江戸の人口が増加するにしたがい、江戸近郊農村では、換金作物として野菜作りが始まりました。葛飾区立石一帯ではウリが盛んに栽培され、本田ウリと呼ばれていました。農家はウリを収穫すると、船に積んで中川を下り、本所を流れる竪川や小名木川を通って、江戸に運んでいました。当時、果物を「水菓子」と呼んでいましたが、江戸に上る途中で積み込まれる、本所で穫れるウリと比べると、本田ウリは大ぶりで格段においしい水菓子と評判でした。本田ウリは熟すと銀白色になり、真桑瓜の金マクワに対して「銀マクワ」と呼ばれていました。

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13)滝野川(たきのがわ)ごぼう別のところで栽培されている旗印と滝野川(たきのがわ)にんじん 栽培が途絶えたものの旗印北区滝野川付近

この地域は深い黒土に覆われているため、長い根のゴボウやニンジンの生育に適していました。「北区の風土記」では「滝野川の地域は、武蔵野台地の一部で、水田が乏しく、畑地ばかりなので、米の代わりに野菜を作って江戸に出荷していた。」と述べられており、とくに、ニンジンとゴボウは篤農家の努力で優秀な品種が作られ、江戸の人々に歓迎されたということです。
滝野川ニンジンは、他のニンジンに比べて収穫時期が遅く根が長い品種で、長さは1メートルにも及びました。濃い赤紅色で、香りが強く肉質がしまっているのが特色で、関西の「金時ニンジン」と並んで関東地方では、享保年間(1716〜36)から昭和20年頃まで、約200年間にわたり栽培されました。
滝野川ゴボウは、元禄年間(1688〜1704)に北豊島郡滝野川の鈴木源吾によって栽培が始まりました。根の長さが1メートルもある大長ゴボウで、品質がよく人気がありました。宅地化によりこの地域での栽培は行われなくなりましたが、近年、滝野川商店街が群馬県で委託生産を行い、滝野川のまちおこしに役立てています。

滝野川にんじん 滝野川ごぼう

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14)大越瓜(おおしろうり)別のところで栽培されている旗印 中野区沼袋一帯

中野区沼袋地域は江戸時代から昭和の初期まで、シロウリの特産地でした。旧武州田畑村付近から、旧豊島郡野方村(現在の中野区野方・鷺宮地域)一帯は、広い武蔵野の畑作地帯でした。なかでも、シロウリ畑は低地から台地まで広く適したので、夏野菜として盛んに栽培されていました。江戸時代後半から明治にかけては、漬物というとシロウリに限られ、キュウリは顧みられませんでした。シロウリには漬物用専用の小型で緑色のものと、漬物あるいは煮物用にも使われた長さ60センチにも及ぶ大型で淡緑色のものとがありましたが、この地方では大シロウリと呼ばれる後者が特産で、季節には農家の女性たちが庭先でウリを縦割りにして、ハマグリ貝で種をかきだしていた情景が各所でみられたということです。

大越瓜(おおしろうり)

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15)井荻(いおぎ)うど別のところで栽培されている旗印 杉並区善福寺付近

井草から善福寺の一帯は、武州多摩郡遅野井村として古くから開けていました。江戸時代には、青梅街道を通じて野菜や薪を江戸に運び生計をたてる農村として発展しました。ウドは数少ない日本原産野菜で、古代より自生のものが利用されています。元来、強健な野菜で武蔵野によく適しましたが、このあたりで栽培されたのは江戸時代後期で、記録によれば文政年間(1818〜30)に旧武州多摩郡上井草村寺分(現在の杉並区西荻北)の古谷岩右衛門が尾張(現在の愛知県)で栽培法を習い、試した結果、立派なウドができたので付近一帯に広まったということです。当時は野菜の種類も少なく、特に春先は不足したため、ウドは庶民の待望の野菜でした。

井荻うど

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16)高井戸節成(たかいどふしなり)きゅうり栽培が途絶えたものの旗印 杉並区下高井戸一帯

17)馬込半白節成(まごめはんじろふしなり)きゅうり栽培が途絶えたものの旗印 大田区馬込一帯(最近他の地域で、復活栽培されている)

18)豊島枝成(としまえだなり)きゅうり栽培が途絶えたものの旗印 練馬区一帯

豊多摩郡高井戸村(現在の杉並区上高井戸・下高井戸)付近は、江戸時代に開拓された地域でした。甲州街道に面し江戸にも近いため、野菜産地化したものです。明治になってからキュウリは大量に消費されるようになりましたが、高井戸キュウリは「節成り」といって、親づるの節ごとに雌花をつける性質があり、栽培がしやすい品種で、明治の中頃から昭和の中頃まで、この地を中心に「高井戸節成キュウリ」と呼ばれ、広く栽培されていました。
南側の旧荏原郡馬込周辺(現在の大田区馬込一帯)では、節成りで果実の下半分が白い「馬込半白節成キュウリ」が栽培され、北に隣接する旧北豊島郡(現在の練馬区)では、親づるには雌花をあまりつけず、子づるに雌花をつける「豊島枝成キュウリ」が栽培されていて、この両者の長所を持ったキュウリが育成されたのです。

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19)大蔵大根(おおくらだいこん)現在も栽培されている旗印 世田谷区大蔵付近

この付近では、練馬大根の系統から分かれた、いわゆる「尻つまり」系統から選抜された品種の大根が江戸末期ころには栽培されていました。それがさらに洗練され、いつしか「大蔵大根」と呼ばれるようになりました。煮物には最適な大根で全国を席巻しましたが、現在のような核家族には大きすぎて、いつの間にか青首大根に取って代わられてしまいました。それでも現地では、がんばって生産をつづけている農家もいます。現在、東京都農林総合研究センター江戸川分場では、大きすぎる大蔵大根を味や形状はそのままに、核家族向けの大きさに改良しようとしています。

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20)練馬大根(ねりまだいこん)現在も栽培されている旗印 練馬区春日町一帯

練馬大根は尾張の宮重(みやしげ)大根をルーツに、練馬一帯で改良されたといわれています。沢庵漬けにはなくてはならない大根ですが、なにしろ1メートル近い長さであることから、大きすぎて敬遠されるようになりました。やはり青首に押されて生産は激減しましたが、地元・練馬の農家のがんばりで、しっかりと生産は継承されています。

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21)居留木橋(いるぎばし)かぼちゃ栽培が途絶えたものの旗印 品川区大崎付近

居木(いるぎ)神社を中心とした、桐ヶ谷から居木橋一帯の旧荏原郡大崎村(現在の品川区大崎)は、江戸時代以前から農業の盛んな地域でした。居留木橋カボチャは、江戸時代の初めに沢庵和尚が上方から種を取り寄せ、当地の名主・松原庄左衛門に栽培させたのが始まりといわれています。海岸に近く気候温暖で、適地であったため、甘味のある良質のカボチャが早い時期からとれたことから有名になり、「居留木橋カボチャ」と呼ばれて親しまれました。果実の大きさは中型で、別名を「縮緬カボチャ」といわれたように、15本ほどの浅い溝を持ち、さらに全面がごつごつとしたこぶで覆われていました。その外観に似ず中は黄色く味はおいしく、当時わが国を代表するカボチャでした。

居留木橋かぼちゃ

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22)クワイ別のところで栽培されている旗印 江戸川区葛西一帯

クワイはオモダカの仲間の水生植物で、江戸では水位の高い葛西一帯が産地でした。お正月料理になくてはならない野菜でしたが、いまや家庭ではお正月にしか見られない野菜のひとつとなっています。最近では、中国料理でお目にかかることが多いようですが、もともと中国から伝えられたものです。漢字では「慈姑」と書きますが、これは慈しみ深い母親が多くの子どもに乳を与えるように、多くの新球(クワイ)ができるところから生まれたと言われています。お正月に縁起物として食べる習慣はここから生まれたようです。

クワイ

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23)千住ネギ別のところで栽培されている旗印 江東区東砂付近

ネギの白い部分を使う「根深ネギ」、その代表が千住ネギです。もともと南葛西の砂村(現在の江東区東砂付近)で作られていたネギが、千住付近の農家の手に渡り育てられて銘柄化したようです。昔から千住の市場で味に評判のあるネギで、今の根深ネギの多くは、この千住ネギの系統から生まれています。千住には今も「長ネギ」しか扱わない千住葱市場があり、ここで評判を得ているのが「千寿葱」です。

千住ネギ

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